LONGNOW Business Review | 連載「何を数えるか」 第7回
秘密にするほど、盗まれる
― 判定が正しくても、失うとき ―
1888年、農商務大臣の井上馨は、高橋是清にある指示を出した。外国から輸入した新式の機械を保護するため、最初に輸入した者に専売特許を与える法律を作れ、というものである。
是清は、これを断った。記録されている理由はこうである。発明の保護は決めずに手元へ残しておき、条約改正の交渉で使う方が日本のためである。井上も納得し、法律は作られなかった。
この判断を、無頓着と呼ぶことはできない。知的財産を外交上の交換材として計算している。事実、外国人からの特許出願が受け付けられるのは不平等条約の改正後、1896年であり、パリ条約への加盟は1899年である。
制度そのものも早い。専売特許条例の公布は1885年。大日本帝国憲法より4年早い。初年度の出願は425件、うち99件が特許となった。当時、特許制度は模倣の自由を奪い国内産業を阻害するという反対論も強かった。それを押し切って作られている。
日本が知的財産に無頓着であったことは、一度もない。
それでも、失った。本稿が扱うのはこの一点である。
0. 本稿が主張しないこと、および利害の開示
本稿は、係争を経た事案を実名で扱う。記述は、公表された当事者の開示および報道の範囲に厳密に限定する。相手方の行為の当否、責任の所在、および法的評価は扱わない。扱うのは、失った側の構造のみである。
あわせて、本稿は政策の当否を論じない。第5章の命題は企業の経営構造に限って述べる。
前稿と同じ開示を繰り返す。弊社の主要なクライアントの一つは造船会社である。第7章で造船に触れるため、当該章は利害関係者による発言である。そのうえで、特定の造船企業には言及しない。
1. それでも、失われた
第4回で、電力用大型変圧器の律速がかつて方向性電磁鋼板の磁気特性にあったこと、その高級帯を定義したのが高磁束密度品を実用化した日本の鉄鋼メーカーであったことを述べた。本稿は、同じ資産を別の角度から見る。
この技術について、日本製鉄はポスコに対し2012年に東京地裁へ提訴し、約1,000億円を請求した。2015年、ポスコが300億円を支払うことで和解している。また、別の訴訟の過程では、不正に得られた技術情報が中国の鉄鋼大手へも流出していたことが判明したと報じられている。
ここで注目すべきは、防御側が何を正しくやっていたかである。

第1回から第6回まで、本連載が扱ってきた失効は、いずれも判定に起因していた。消尽し、追随され、迂回され、階層が下がる。四つとも「時差型を物理型と見誤った」ことに由来する。第4回で扱った不活性はこの四つとは別で、失効ではなく、破れないまま効かなくなる状態であった。問いが型ではなく律速の側にあったという違いはあるが、判定の話であることに変わりはない。
この事案は違う。判定は正しかった。そして失われた。
2. 漏出命題
なぜ、正しい判定が助けにならなかったのか。
時差型の残り寿命は、通常こう見積もられる――この技術を他者が自力で習得するには何年かかるか。文書化されていない現場知の比率が高いほど、複製は遅い。だから、まだ数年は持つ。この見積もりは、実務で日常的に行われている。
そして、この見積もりには書かれていない前提が一つある。
複製の経路が、自力学習であること。
漏出は、この前提を無効にする。他者は学習曲線を通らずに到達する。すると、残り寿命の見積もりは誤差ではなく、根拠そのものを失う。
【漏出命題】時差型の残存寿命は、暗黙知の比率――複製に要する学習時間――から見積もられる。この見積もりは、複製経路が自力学習であることを暗黙の前提としている。
漏出はこの前提を無効にし、見積もりごと寿命を消滅させる。ゆえに漏出は、他の失効経路と異なり、型の判定が正しくても発生する。防御は判定の精度によってではなく、複製経路の閉鎖によってのみ行われる。
これは失効の第五の経路ではない。他の四つと問いが違う。四つは「判定を誤るとどうなるか」に答え、本命題は「判定が正しくてもどうなるか」に答える。並べるものではなく、直交するものである。
3. 運搬物命題
さらに厄介なことがある。第1回の記述の一部が、ここで反転する。
第1回では、戦後の品質と工程能率が20年から30年という異例の長さで持続した理由を、暗黙知の比率が高く移転が遅かったからだと述べた。自力学習に対しては、これは正しい。
だが漏出に対しては逆になる。文書化されていない知識は、それを保持する個人と一体で移動する。図面は複写に手間がかかり、持ち出せば痕跡が残る。人は、歩いて出ていく。
【運搬物命題】暗黙知は、自力学習に対しては防壁として働き、漏出に対しては運搬物として働く。
ゆえに暗黙知比率の高さは、時差型の寿命を延ばす根拠にはなるが、漏出耐性の根拠にはならない。両者は別の問いであり、前者の答えを後者に流用してはならない。
4. 分散が防ぎ、集中が招く
では、何が漏出に耐えるのか。ここに逆説がある。
製造ノウハウが一つの組織の中で完結しているとき、それは運べる。工程の全体像を保持する人間が存在するからである。完結度が高いほど、一人あたりが運べる量が増える。
対照を置く。半導体の最先端露光装置は、単独の企業の中で完結していない。光源は買収によって取り込まれた別系統の技術であり、光学系は他国の専業メーカーが担い、部品の供給者は数千社に及ぶ。どの一社からも、どの一人からも、全体は持ち出せない。
持ち出せないのは、秘密の管理が厳格だからではない。そもそも一箇所に存在していないからである。
秘密にするほど、盗まれる。
漏出耐性は、集中と管理からではなく、分散から生じる。
この逆説は、多くの日本企業にとって不利に働く。一貫生産・垂直統合・内製化は、いずれも完結度を高める方向の設計である。それらは品質と統合の優位を生んだ。そして同じ性質が、漏出に対しては脆弱性になる。
5. 守ってきたのは、発明である
冒頭に戻る。無頓着でなかったのに失ったのは、なぜか。答えは、守る対象にある。
知的財産の保護には、性質の異なる二つがある。

最下段が決定的である。出願件数は測れる。規格の場に何年常駐したかは測れない。測れる方に資源が向くのは、担当者の怠慢ではなく、計器の構造がそうさせている。
【保護対象命題】知的財産の保護は、発明に対しては制度によって行われ、規格に対しては常駐によって行われる。前者の投資は件数として可視化され、後者の投資は当期の数字に何も生まない。
ゆえに、知的財産に熱心な組織ほど発明の保護に偏り、規格の定義権を失う。無頓着だから失うのではない。測れる方を熱心に守るから失う。
電磁鋼板の事案は、この構図を正確に示している。守られたのは製造ノウハウであり、守られなかったのは、その鋼板を使う機器の仕様を書く位置であった。前者は訴訟で一部を回収できた。後者は、訴訟の対象にすらならない。
6. 処方は、速度である
漏出に対する処方は、第6回で示した三択とは別系統である。移動でも転換でも運用でもない。
論理的には二つしかない。複製経路を閉じるか、漏れる速度より速く更新するかである。
前者には限界がある。人は動く。設備は写真に撮れる。工程は退職者の頭の中にある。管理を強化しても、到達できるのは漏出の遅延であって、停止ではない。
したがって実効的なのは後者である。優位を、内容としてではなく更新の周回として保持する。次の世代を出し続けているかぎり、持ち出されるのは常に一世代前の状態になる。前章で挙げた露光装置の系列が実際に行っているのは、これである。
この処方には、経営上の含意が一つある。更新を止めた瞬間に、それまで蓄積した機密の価値も止まる。保護費用は残り、優位だけが減る。機密管理の予算が増え続けている一方で開発の周回が遅くなっているならば、それは守りが強くなっているのではない。
7. 造船へ ― 一般論として
造船の中核的な知的資産は、図面と工作法である。そして両者は、一つの造船所の中で完結しやすい。第4章の言い方をすれば、完結度が高い。
この性質は、品質と納期の優位を生んできた。同時に、漏出に対しては最も脆弱な形をしている。実際、建造能力が欧州から日本へ、日本から韓国へ、韓国から中国へ移った過程は、規模の競争であると同時に、完結した工程が一括して移りうることの帰結でもあった。
ここから導かれる問いは、直感に反する。自社の中で完結していることは、強みなのか、それとも運びやすさなのか。
そして第5章の問いも当てられる。自社が保有する知的財産のうち、他者の設計を拘束しているものは何件あるか。出願件数でも登録件数でもない。この数を出している企業を、私は寡聞にして知らない。
具体的にどの資産がどちらに当たるかは、本稿では扱わない。前稿までと同じ理由による。
結語 ― 数えていないもの
本連載は、何を数えるかという一点だけを扱ってきた。第1回で、明治以降の日本は優位を獲得する能力に優れ、その型を判定する能力に劣ったと書いた。七回を経て、判定の話には続きがあることが分かる。
判定が正しくても、失うことがある。そのとき問われるのは判定の精度ではなく、その優位がどこに、どのような形で置かれていたかである。一箇所に集めて鍵をかけたのか、そもそも一箇所に存在しない形にしたのか。
1888年に高橋是清が下した判断は、知的財産を交渉材料として計算するものだった。計算していたのである。それから140年近くが経ち、いま数えられているのは件数である。
出願件数を数えるな、とは言わない。何件が他者を拘束しているかを、併せて問え。
出典注記
専売特許条例の公布年、初年度の出願・登録件数、外国人による特許出願の受付開始、パリ条約への加盟、および1888年における高橋是清と井上馨のやり取りに関する記述は、特許庁および日本弁理士会の公表資料に依拠する。当時の発言は同資料に記載された趣旨の要約であり、逐語ではない。
方向性電磁鋼板をめぐる訴訟の提起時期、請求額、和解の時期と金額、生産工場における立入制限、および第三国への流出に関する記述は、当事者の公表資料および報道の範囲に依拠する。本稿は失った側の構造のみを扱い、相手方の行為の当否、責任の所在、および法的評価を論じない。
最先端露光装置の供給構造に関する記述は、同分野の企業の公表資料および業界報道に基づく一般的な整理であり、特定の企業の内部構造を記述したものではない。
漏出命題および運搬物命題は、本連載がこれまで扱ってきた失効の四経路とは異なる問いに答えるものであり、五番目の経路として並列されるものではない。この区別は本稿第2章に記した。
保護対象命題は、企業の経営構造に関する命題として述べたものであり、公共政策上の含意を主張するものではない。国家の知的財産政策の当否は本稿の範囲外である。
本稿は公開情報を経営構造の分析素材として用いるものであり、特定企業の経営判断の当否、個別の主体の責任、および政策の当否を論じるものではない。
LONGNOW K.K. | 未来へ続く今を、動かす。Now, for the Long.